三重県の南部、尾鷲市にあるカフェ、scale-158での日常をお伝えします
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PROFILE
cafe Scale

開業:2002年2月
形態:カフェ

営業時間 8:00〜19:00
定休日 水・木曜日
住所 三重県尾鷲市宮の上5-11
電話  0597−22−5258

掲載写真の無断使用はお断りします。
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雨は毛布のように
2月26日。雨。

敬愛する心の師匠、内田樹氏の[日本辺境論]が[新書大賞]を受賞したということを記念して(?)、氏のブログより(随分前のだけど)、私が気に入っている文章をここにコピペします。

以下、氏のブログ[内田樹の研究室]からの抜粋です。



「若者はなぜ3年で辞めるのか?」を読む


電車の中で城繁幸『若者はなぜ3年で辞めるのか?年功序列が奪う日本の未来』(光文社新書、2006)を読了。

面白いですよと薦められて読んだのだけれど、どうも読後感が「しっくり」しない。
2000年の統計では大卒新入社員の36.5%が三年以内に辞めている。
1992年には23%だから、10年間に1.5倍になった計算である。
そのまま増え続けているのだとしたら、2007年は40%くらいになっているのかもしれない。

たしかにこれは大きな社会問題である。

辞める若い勤め人だけでなく、彼らをそういう立場に追い込む企業の構造にも問題がある。
著者はその両方の原因を指摘するが、リソースを老人に集中して、若者を収奪する構造に主因を見る。

それはどういう構造かというと。

終身雇用・年功序列制がきちんと機能していれば、若いときの薄給は年齢が上がってからの地位と給与の上昇という報酬によって相殺される。
しかし、バブル崩壊以後、経済のグローバル化の荒波の中で、そのような牧歌的な人事制度を維持できている企業はもうほとんど存在しない。
というのは「若い頃の頑張りに対する報酬をポストで与える以上、企業側はポストをどんどん増やさなければならない。定期昇給を毎年実施してゆくためには、売り上げが上がり続けること(少なくとも高い水準での現状維持)が必須だ」(44頁)からである。

今後数十年にわたり黒字経営が続く保証なければ、終身雇用・年功序列は機能しない。つまり、若いときに薄給でこき使われて、そのまま「こき使われ損」で馘首されるか、生涯平社員のままという可能性が出てくる。
社内にキャリアパスが一本しかない以上、その数を減じた管理職ポストの空きを待って、30代40代のサラリーマンが長蛇の列をなしている。
それを見た20代の平社員に企業内における未来についての希望が扶植できるであろうか?
たしかにきわめて困難であろう。

もちろん首尾よく管理職に登って、若い頃のオーバーアチーブを地位と給与で補償される人もいるけれど、「半数以上は“働き損”で終わることになる。彼が受け取るのはポストではなく、やり場のない徒労感でしかない。これが、若者が会社を途中下車する最大の理由だ。」(46-7頁)
この分析はおそらく正しいのであろう。

もちろん、人は金だけのために働くわけではない。
「働き甲斐」というのは金だけではない。

著者は「やりがい」の条件として「担当業務が縦に切り出された形で一任されること」、「予算も含めた権限がセットでついてくる」雇用形態を推奨する。つまりスタンドアロンで、小なりといえども「一国一城」を任されると、若者もやる気になる。

それを可能にするのが年俸制・職務給という「キャリアの複線化」システムである。
それぞれ自分の得意な分野で自由裁量権をある程度任され、その働きに応じて給与を受け取るシステムであれば、仕事にやりがいは見出されるであろう、というのが著者の見通しである。

私はこれを読んでしばらく考え込んでしまった。

これは仕事とそのモチベーションについて書かれた本のはずであるが、この200頁ほどのテクストの中で、「私たちは仕事をすることを通じて、何をなしとげようとしているのか?」という基本的な問いが一度も立てられていないからである。

それはたぶん自明のことだからだ。

仕事をするのは「昇給」のためであり、「やりがい」というのは「職務給」システムのことである。

要するに人間は金が欲しいんでしょ、という若い著者の「クール」な諦念(と申し上げてよろしいであろう)が全体に伏流している。

だが、私は「要するに人間は金が欲しいんでしょ」という「リアル」な人間観そのものが「3年で辞める若者」を再生産しているのではないかと思えてならない。

終身雇用・年功序列が長らく日本的雇用形態として定着してきたのは、それが最終的には努力と報酬の相関という「フェアネス」を保障したからである。
年俸制・職務給が人をひきつけるのはそれが「権限委譲」「自由裁量」というかたちで「信頼」というものを示すからである。

年俸制・職務給というシステムの合理性を著者はさかんに強調するけれど、この給与システムは実はそれほど合理的なものではない。
なぜなら、それは「まだやっていない仕事」に対して俸給を約束するシステムだからである。


ストーブリーグになるとプロ野球選手の年俸契約更改がスポーツ欄をにぎわす。
そのとき高額の俸給だけでなく、「複数年契約」ということについて選手にとって「高い評価を与えてもらった」というコメントをする。
ベテラン選手に対して複数年契約をするということは、「まだやっていない仕事」に、場合によってはかなりの確率で「完遂できないかもしれない仕事」に高額の年俸を約束することである。
もし、ほんとうの意味で合理的な年俸があるなら、それは「次年度」の俸給ではなく、「過年度」の俸給として支払われるべきであろう。

労働者が現に達成した成果に対して支払う限り、そこに「払いすぎ」ということは起こらないし、予想外の活躍をしたにもかかわらず新人だったので「働き損」をしたということも起こらない。
けれども、高いアチーブメントを求める人々は「まだ完遂していない成果」に対する「前払い」という給与形態をやめない。

それはどうしてか。

それは、「完遂できない可能性のある仕事」に対して高額の給与を約束することは、そうでない場合よりもその仕事を完遂する確率が高いということを人々が経験的に知っているからである。
職能給や年俸制が合理的なのはそれが成果の査定の仕方として厳密だからではなく(事実厳密ではない)、「まだ出ていない成果に対して前払いするという「信頼」を与えられると人間のパフォーマンスが高まるからである。

「フェアネス」とか「信頼」というものを頭の悪いビジネスマンは「そんなものには一文の価値もない」と笑って棄てるけれど、実際に人間の労働パフォーマンスが上がるのは、自分の労働を通じて社会的な「フェアネス」が達成できるという希望を持てる場合と、与えられた「信頼」に応えねばという責務の感覚に支えられている場合だけである。

何度も書いていることだけれど、労働というのは本質的にオーバーアチーブである。

オーバーアチーブという言葉には、単に「賃金に対する過剰な労働」のみならず、個人にとっては「その能力を超えた成果を達成すること」を意味している。
というより、「賃金に対する過剰な労働」は労働者自身が「能力を超えた働きをしてしまった」ことの副作用なのである。
だから、もし労働条件というものを「能力に応じた賃金」という「合理的な」ものに設定した場合、私たちの労働パフォーマンスは一気に萎縮してしまうだろう。
労働について考えるときには、「どうしたら能力や成果に応じた適正な賃金を保証するか?」ではなく、「どういう条件のときに個人はその能力の限界を超えるのか?」というふうに問題を立てなければならない。

人間が継続的に活気にあふれて働くのはどういう条件が整った場合か?

そういうふうに問題を立てなければ、「なぜ若者たちは3年で辞めてしまうのか?」という問いには答えることができないだろう。

答えはもう書いたとおりである。

人間は「フェアネス」の実現と、「信頼」に対する応答のために働くときにその能力の限界を超える。

阪神の金本選手は契約更改のときに、「自分の俸給を削っても、スタッフの給与を増額して欲しい」と述べた。
これを「持てるものの余裕」と解釈した人もいるだろう。
けれども、私は違うと思う。
金本選手という人はどういう条件であれば自分のモチベーションが維持できるかを経験的に熟知している。
彼の活躍を「わがこと」のように喜んでくれる人間の数を一人でも増やすことが自身のモチベーションの維持に死活的に重要であることを知っているからこそ、彼は「フェアネス」を優先的に配慮したのである。

ベネフィットを分かち合うことによって、ベネフィットの継続的な享受システムを基礎づける。
これは人類学的な「常識」に属する。

話を戻そう。

老人たちが社会的リソースを独占して、若者の機会を奪っているせいで、日本はこんな社会になってしまった。老人は既得権益を吐き出して、若者に未来を託せ、と著者は主張する。
私はこの主張には一理あると思う。

「フェアネス」が担保されなければ社会は機能しないからである。
ただし、「フェアネス」に対する欲求は年齢とは関係がない。
潤沢に社会的リソースを享受しながら「フェアネス」の必要を痛感している人もいるし、貧しいけれど、「自分さえよければ、それでいい」と思っている人間もいる。
その人が「フェアネス」を希求しているかどうかは、その人の年齢とも社会的な成功とも関係がない。

私が「奪還論」型の議論(「私から収奪したものを私に返せ!」)を好まないのは、「奪還したリソース」を「戦わなかった人間」に分かち与えることを奪還論は論理的に許容しないからである。
必死の思いで戦い獲ったものをどうして戦わなかった人間とシェアしなければならないのか。
若者が収奪されている社会にあってもスペクタキュラーな成功を収めている若者はいくらもいる。
だが、彼らはその成功の成果を貧しい若者たちと共有しようとしているだろうか。
私は若者たちが「フェアな分配」を求めていることには堂々たる根拠があると思う。けれど、それが「フェアネス」に対する原理的な配慮からかどうかはわからない。
著者は能力のある人間であれば若くても相応の給与と待遇を獲得し、能力のない人間は老人であっても放逐されるのがフェアな社会だと考えているようである(「強欲で恥知らずな老人ども」というような措辞から推して)。

若い読者の中にはこれを読んで溜飲を下げる人もいるだろうけれど、私は「能力があるけれど貧しい若者」と「無能で強欲な老人たち」というようなシンプルな二項対立で現代日本の社会状況を説明することはいずれ破綻をきたすだろうと思う。
なぜなら、確実にあと20年経てば「老人たち」はいやでもリタイアして、一部の「若者たち」が「既得権益の享受者」の席に繰り上がるからである。
そのとき「元・若者」たちが「いまこそ社会改革のときだ」と呼号して、自分たちに選択的に与えられた既得権益を放棄して、「貧しい若者たち」とシェアするフェアな社会システムの構築を求めるようになるだろうという見通しに私は与することができないからである。
「無能で強欲な老人たち」に収奪されている若者という自己規定から出発する人間は、いずれ老人になったときに「無能で強欲であること」を自らに義務として課すようになる。そうでなければ「帳尻が合わない」からである。
「不当に収奪しているあいつら」と「不当に収奪されているわれわれ」という二項対立で社会矛盾を論じることに慣れた人々は、ひとたび「収奪する側」に回ったときに、「これまで収奪された分の奪還」(つまり個人的な損得勘定の精算)に忙しくて、社会的フェアネスの実現にはあまり配慮しないものである。

それは社会主義革命のあとの革命党派の官僚たちの腐敗ぶりをみればわかる。
社会的リソースは放っておけば必ず偏る。
それをできるだけうまく「流れる」ような装置をそれぞれがそれぞれの場所で工夫を凝らすこと。
それが「フェアネスへの配慮」ということである。
繰り返し言うように、その仕事には年齢や年収や社会的立場はかかわりがない。
フェアネスは行政指導で全社会的な規模で実施されるべきものであって、個人的にどうこうするものではない、と思っている人もいるだろう。
それは「誰か」がやることだ、と。

社会がそういう人ばかりになったとき、役人たちもまたそういう人ばかり
になったとき(今がそうだ)社会的フェアネスを配慮する「公人」は地を払った。
今必要なのは、「自分のもとに流れ込んだリソース(財貨であれ権力であれ情報であれ文化資本であれ)を次のプロセスに流す」という「パッサー」の機能がすべての人間の本務であるという人類学的「常識」をもう一度確認することである。
私は大学を卒業してすぐ無業者となり、しばらくして平川君と会社を立ち上げて経営者になった。
仕事は愉快で、俸給もたっぷり頂いていたけれど、その会社を私は3年で辞めた。
その会社での自分のキャリアパスの見通しがあまりにわかりやすかったので、ちょっと脱力してしまったのである。

私たちの労働意欲を担保するのは必ずしも「未来が保障されている」ではない。
「未来が未知だから」こそ働く意欲がわくという若者もいつの時代にもいる。
そのことを誰かがアナウンスしたほうがいいと思うので、ここに書きとめておくのである。





以上、氏のブログからのコピペでした。

なぜ、[本屋大賞]を受賞した氏からのお気に入りの文章の中からコレをチョイスしたのかはちょっと理由があります。


この文章の中で氏は阪神タイガースの金本選手の『もっともモチベーションとパフォーマンスが上がる方法』について触れています。

それはお金ではなく、もっと別の所にある、と。

これには大変共感します。

私が関わっている市民活動は冷静に見れば『やってもやらなくてもいいこと』かもしれません。

だから私(たち)の『『やってもやらなくてもいいこと』を全力でやっている』という姿は、その重要さを分かっていない人の目からすれば滑稽に映るでしょう。

しかし、それが、そのことによって得られたプライスレスなものが、今後の自分にとってモチベーションとパフォーマンスを上げる重要な要素であることを、私は経験的にわかってきました。

これをすんなりわかってきたのも氏の文章を初めて読んだ時に『この人を自分が生きていくためのロールモデルにしよう』と決めてはや10年くらい経とうとしていからかもしれません。



さて、写真は、祖母がいけていた[木瓜]の花です。
([木瓜]は“ぼけ”と読みます)

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上の写真2枚は、[Xiao Style]というトイカメラ風デジカメ(“トイデジ”と呼んでいます)で撮った写真です。

この[Xiao Style]、かなりのクセものです。
上の2枚は画像の処理や加工をしていません。
していないのにこんな風に写してくれる“愛いやつ”なのです。

が、最近はこれくらいのことは[i Phone]のカメラでも簡単に撮れるらしいですね…。


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この写真は午前中に一眼レフのデジカメで撮った写真。


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上の2つは、午後に撮ったもの。


色々と試行錯誤してます。

それがデジカメのいいところ
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by scale-158 | 2010-02-27 00:11 | flower&plant | Comments(2)
Happy Birthday
2月22日。

8年前の2002年の2月22日、カフェ[スケール]はオープンしました。
(おや、2並び)

あれから8年も経ちました。
大学を卒業して22歳だった私ももう30歳になりました。

このまま変わらぬ日々を過ごすことができれば、なんとか10周年を迎えることができそうです。

これもひとえに、日頃[スケール]に足繁く通ってくれる皆様、時々気が向いた時にフラっと来てくれる皆様、『今日はスケールだ!』と思って来てくれる皆様、お盆やお正月に必ず来てくれる皆様、まだ一度も来たことがないけれど、こうしてブログを読んでくれる皆様によって、無事8周年を迎えることがきました。

ありがとうございます。
そしてこれからも変わらぬ愛情で、どうかご愛顧、ご贔屓をいただければ、と思っております。



そして今日はもう一つ嬉しいお知らせが。

姉に第2子が生まれました。

平成22年2月22日が誕生日。
(おや、こちらも2並び)


保育器の中で元気に泣いていました。
たろうくんが生まれた時のことを思い出しました。

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第1子のたろうくんとともに、元気に、健やかに育っていって欲しいと願いました。
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by scale-158 | 2010-02-22 23:20 | photo | Comments(8)
前人未到のハイジャンプ
今日の尾鷲地方は晴れ。
日に日に温かさが増しています。
春はもうすぐそこ?かな。


先日、京都・大阪に行った時の話(まだその話する?)

大阪に[TRUCK]という有名な家具屋さんがあります。
以前も行ったことがあります。

その[TRUCK]ですが、カフェを併設して、お引っ越し&リニューアルオープン、という記事を雑誌で読んでいたので、この機会に行こう、と思っていました。

以前[TRUCK]があった場所は、決してアクセスが良い場所とは言えない所にあったと思います。
(あくまで他所から行った場合の話ですが…)

引っ越しした[TRUCK]の場所もまたもや決して良い立地条件とは言えない場所のように感じました。

が、平日のお昼だというのに、家具屋の方もカフェのほうも人がいっぱい。


私のその中の一人にカウントされるのですが、[TRUCK]には根強いファンがいて、もはや[TRUCK]は一種のヒエラルキーというか、[TRUCK]、というだけ、ただそれだけで高いネームバリューを備えています。

それだけ、根強いファンとネームバリューがあれば、立地条件やアクセスの悪さなんかなんのその、って感じでしょうか。

そういう力強さをお店の雰囲気からも感じました。


根強いファンとネームバリュー、それを獲得するまでが難しいのでしょうが、逆にそれを獲得できれば、お店としてめちゃめちゃ“面白い時期”にさしかかることができます。

何か新しいことを始めようとする時、『あのお店は以前から面白いことをやってるから、今度もきっと面白いことをやるに違いない』と思わせることができれば、それはもう新しいことをする“船出”としては順風満帆です。
(逆に『あのお店は以前もパッとしなかった。今度もきっとパッとしないだろう』というイメージが事前についてしまえば、向かい風の船出です…。)



先日、某新聞社の取材を受けました。
新たにオープンさせた雑貨屋さんをフィーチャーしてくれます。

この記事を読んで、『またハマノが何か始めた』と思ってくれるとは思うのですが、『面白そう』と思ってくれるのか『つまらなさそう』と思ってくれるのかはわかりません。

どちらにしろ、今までの自分の積み重ねてきたもの(…この場合“技術”という意味ではなく、“人付き合い”という意味で)の成果が試される瞬間でもあります。




甥っ子のたろうくん、みかんの皮をむくのが大好き
(しかし食べない)

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今日は小学校で遊びました。
すべり台、大好き。
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何度だってすべります。


実はたろうくん、一人っ子でいられるのは今日で最後。
明日、弟が生まれてくるのです。

たろうくん、おにいちゃんになるね。

明日は2月22日。
たろうくんの弟の誕生日でもあり、[スケール]の開店記念日でもあります。

明日で丸っと8年。
なんとかかんとか8年。

これからもよろしくお願いします。
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by scale-158 | 2010-02-21 12:10 | photo | Comments(2)
十四時過ぎのカゲロウ
先日はお休みでした。
髪を切りました。

それだけと言えばそれだけの日でした。

最近は自分の時間を大切にしようと思って、あまり遅い時間まで仕事をするのを控えています。
その時間を使って映画を見たり、本を読もうと意図的に思っています。


お風呂で文庫本を読むこともあります。
基本私はお風呂に長くつかれないタイプなのですが、文庫本でなんとか長く湯船につかっていられます。

先日は[日本辺境論](@内田樹)を、昨日はなぜか[できればムカつかずに生きたい](@田口ランディ)を読みたくなったのでお風呂で読んでました。

お風呂で本を読むと、当たり前ですが、湯気でちょとページがシワっとなっちゃいます。

借り物は当然、ハードカバーをお風呂で読むのは無理です。
文庫本が最適です。


お風呂上がりにDVDを見ます。

先日は[ジェネラル・ルージュの凱旋]を、昨日は[南極料理人]を見ました。
([堺雅人]がお気に入りです)


ま、そんな毎日と言えば、そんな毎日です。



先日『東紀州防災ボランティアコーディネーター養成講座』に出席しました。

講師の山本氏は以前の自己紹介で、
『防災ボランティアの講師をしていますが、これで食べて行っているわけではありません。てゆーかこれ(講師)では食ってはいけません。ではなぜ、こういうことをやっているかというと、ひとことで言うと趣味です。みなさん、自分の趣味に時間とお金を割きますよね?それとおんなじです』
と言っていました。

確かに、ね。
ギャンブルや趣味に時間とお金を費やすことと同じで、自分にとってはギャンブルにお金と時間を投資するよりも得るものがあり、楽しい、と。

そしてその山本氏、先日もカフェのほうに来てくださいまして、
『なんでこういうことやってるか、って聞かれても困るよね。“なりゆき”と“好きだから”って言うしかないよね』
と言っていました。

確かに、ね。
こういう説明ってあっさりと口で説明できるほど簡単ではありません。

なぜ今自分がこういうことをやっているかなんて大抵“なりゆき”と“好きだから”でしょ。

“なりゆき”っていうのは言い換えてみれば「自分に手渡されたバトン」のようなものだと、私は思います。

それが「自分に手渡されたバトン」かどうかを意識できるかどうかはその人の裁量によるものだと思いますが、それをちゃんと意識して、次に手渡すことができるかどうのカギは、その人の「好きだから」というモチベーションにゆだねられると思います。


先日京都のギャラリーにお邪魔した時、ギャラリーの運営者は、会社勤めをしながらギャラリー運営をしていましたが、ギャラリー運営のほうは赤字で、自分たちの持ち出しで運営している、とのことでした。

ギャラリーの運営は、自分達が好きでやっている事だし、ギャラリーの運営を通して出会える人との出会いはまさにプライスレスで、自分が出資している分を回収できてなくてもいいんだと思います。


私もカフェで働きながら、他のことを色々とやっていますが、やっぱり「乗りかかった船」「いきかがり上」でやっていることで、それは仕事のみをやっているだけでは味わうことのできない感動、出会うことのできない人との出会い、または面倒なことや苦労も引き受けてしまいますが、それもひっくるめてまた生きていく醍醐味というものです。


前にもチラッと書きましたが、何かにお金をかけて、それに対して等価の見返りがあるなんでいう計算はビジネスの現場に任せておけばいいのだと思います。

そのビジネス的思考(費用対効果を求める思想)をあらゆる現場に適用しないほうがいいと思っています。


と、言うと『どんぶり勘定だ』と言われてしまうかもしれませんが…


さて、今日紹介は[クレッセント]という名前が付いたクッキーです。

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[クレッセント]は、『三日月』の意味で、形でそう読んでいるわけでして、特別な手法が由来ではありません。

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とは言え、ちょっと珍しい材料を使います。

バターと砂糖。卵は卵白のみ。あとはローストしたアーモンドプードルと薄力粉を使います。

卵白のみのクッキーは独特の軽い食感になりますし、ローストしたアーモンドプードルは香ばしさがあります。

見た目の可愛さもあって、[カデンツ]の一番人気のクッキーです。
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by scale-158 | 2010-02-20 10:35 | cookies | Comments(4)
美と茶道に思いを馳せる
2月12日。
晴れ。

昨日は紀伊長島にできた(正式には13日がオープンで今日はプレオープン)、[千や]さんに行ってきました。

[千や]は、民家を改装してできたお店で、中では和菓子やお茶が販売されていますし、また、そこでお茶をすることもできます。

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この[千や]はデザイン会社に勤務している友人の、その会社のプロジェクトの一つで、以前からカフェ併設の和菓子屋さんをすることは耳にしていました。

「もしよかったら助言を」と友人に言われていて、、私も興味があったので「うん。また暇な時に改装の現場を見させてもらいます」なんて言ったものの、不義理な私はそれきり現場には足を運んだことがありませんでした(本当にゴメンナサイ)。

で、昨日、そのお店がお披露目、ということで(ちょうどお店も休みだったので)、完成したお店にお邪魔してきました。

以前友人から、改装する民家のスペースやかけられる予算にかなりの制限があることを聞いていたので、どうなっていることかと思いましたが、そんな制限など微塵も感じられないほど素敵な空間でした。
(随分、知恵を絞ったのと工夫をしたのかもしれませんが、そういう苦労の跡を見せることのない潔い空間でした)


出迎えてくれた友人はしきりに「もし気になるところがあったら言ってね」とか「まだまだ荒が見えるんやけど…」とかなり気にしていまいしたが、私から見ればそんなに気にすることではなく、とても立派で、自信をもっておすすめできるお店だと感じました。


一言で言えばシンプルな空間でしたが、そこはかとなく壁の色が「粋」な感じがしましたし、全体的な雰囲気もとても落ち着ける感じで、良い意味でボーッとできる時間を過ごさせていただきました。


確かに「もてなす」というのはとても気の張ることで、「もっとビジュアル的に楽しませたほうがいいのかな?」とか「音楽とかかけたほうがいいのかな?」とか「雑誌や新聞を充実させたほうがいいのかな?」とかあれこれ考えてしまいがちで、「これでいいのかな?」と常に抱く緊張感も大切なのですが、意外にお客さんを「放っておいて」もいいと、私は思います。


「千や」の壁はシンプルに統一されていました。
普通、シンプルな壁に花を生けた花器をかけたり、彫刻をかざったり、方言や伝承を説明した巻物なんかを飾ったりしてしまいがちですが、「茶室」にそういうのは「余計なこと」かもしれません。

「シンプルを貫く」というのは「もてなす側」としてはとても勇気のいることなのですが、「もてなされる側」としてはそれで良いと思う人のほうが多いのではないかと、私は思います。

少なくとも私は好きです。


昔「茶道」というのはある意味「相手の力量を測るためのもの」として利用されたことがりました。

「もてなす側」は良い茶碗(←伯のある、という意味)、良い花器で客人をもてなす。
「もてなされる側」は、その亭主の発する「記号」を読み解く。

両者がその知識や造詣の深さをしのぎ合う場として利用された時代がありました。


しかし考えてみればそれはとても肩の凝ることです。

「もてなす側」がそれがいいとか悪いとかではなく、自分の好きなスタイルを貫いておもてなしし、「もてなされる側」も、自分の好きなように楽しめば良いのだと思います。


客が喫茶店や茶房に求めるものはやはり「落ち着ける空間」「癒しの空間」です。

その空間が記号や情報だらけでは疲れてしまいます。

シンプルとは、胆力のいることですが、そこはかとなく続けていってほしいと、密かに願い、お店を後にしました。
(ま、私がそんなことを願わずとも、遥かにセンスの良いスタッフさんですので、それこそ余計な心配だとは思いますが)



さて、今日の日記は少し長いです。
茶道について触れたので、もうちょっとそれ関連の話を。

一昨日はNHKの[歴史秘話ヒストリア]という番組を見ていました。

その番組では未だ謎の多い人物[古田織部]の特集をしていました。

[古田織部]という名前は聞いたことがなくても[織部焼]という焼き物の名前くらいは聞いたことがるかもしれません。

[古田織部]は戦国大名の一人ですが、「武」によって名前を上げたというより「美」によってその名前を轟かせた人物として知られています。

当時の筆頭茶道、[千利休]に師事し、[千利休]の亡き後、筆頭茶道の座についた美の実力者、文化人です。


[千利休]が目指した美が[侘び]と呼ばれ、「渋さ」を追求し、それが形になったものを[利休好み]と言いますが、その弟子であった[古田織部]は[ひょうげ]の美、つまりは「面白さ」を追求し、「織部好み」と呼ばれました。

[千利休]が当時の文化のメインストリームであったなら、[古田織部]はオルタナティブでした。

[千利休]の亡き後、(短い間、と言われていますが)[織部好み]がメインストリームとなります。

さらに[古田織部]の弟子、[小堀遠州]は後に[きれいさび]と呼ばれる価値観を完成させ、それは[千利休]と[古田織部]、その2つを昇華を経て完成したと言われていますが、どちらかというとまた[利休好み]に回帰している部分があります。

つまりメインストリームとオルタナティブが時代によって逆転したり、回帰したりを繰り返していたりするのです。


この番組に出てきた織部焼を見て私の父が「魯山人やなあ」とボソっと言いました。

私も「確かに!」と思ったので、[北大路魯山人]の焼き物と[織部焼き]の関係を調べてみましたが、魯山人が織部に回帰した、という記述は見られませんでした。

しかし、[織部焼き]のシンボルカラーである深緑が、魯山人の器にも用いられているので、何かしたの影響はあったのではないかと推察できます。

もちろん私は焼き物に関しての知識はズブの素人なので、推察の域は出ませんが…。


こうやって色々と考えを巡らせてみるのもまた楽しいです。


[千や]さん、開店おめでとうございます。
そしてごちそう様でした。
また伺います。


※と、いう日記をアップしようとしたちょうどその時、岐阜から友人が訪ねて来てくれました。
岐阜の美濃には「織部焼き」の窯が多くありますが、その美濃と魯山人は大いに関わりがあるとのことでした。

情報ありがとう。
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by scale-158 | 2010-02-12 16:06 | photo | Comments(6)
バードランドの子守唄
2月8日。晴れ。

今日はなぜか『バードランドの子守唄』が頭の中を流れています。
口笛ふいちゃったりなんかして。

だから今日の日記のタイトルにしたのですが、内容とは関係ありません。


今日の日記は別のところで書いたバラバラの日記をこちらのブログにまとめてペーストしておきたいと思います。(長いので暇な時にお読み下さい)



○アウトプットに関する2つの言説


とあるブログで、


弱さというのはアウトプットそのものではなく、ある種のアウトプットを生み出す「傾向」のことだからである。


という一文があって、それを読んでハッとした。

前後の文脈がないと『なんのこっちゃ』でしょうが。

良い言葉だと思います。


弱さというのはアウトプットそのものではなく、ある種のアウトプットを生み出す「傾向」のこと。


例えば、『疲れた』場合、『疲れた』そのもの(=アウトプット)が『弱さ』なのではなく、それ(=疲れた、というアウトプット)を生み出す『傾向』が弱さの正体である、と。

ま、当たり前っちゃあ当たり前なのでしょうが、実はその『傾向』を意外にも『好んで』生み出している『傾向』があり、それを自分の『弱さ』と自覚するのは大変難しいことであると思う。



もう一つ、別の場所で『アウトプット』に関する記述を読んだ。



「事後的に有用性が明らかになるモノを先見的に拾っておく」感性について繰り返し述べており、「その教育/学習はどのような効果が見込まれるのか」という問いを厳しく批判している。この観点から、アウトプットの定量を要求する経営主義的な学校運営に反対している。



これは某氏が教育に関する自分の立場を説明したもの。

最後の一文、『アウトプットの定量を要求する経営主義的な学校運営に反対』という部分。

これは『これこれこういう施策をとればこれこれこういう結果が得られます』という経営的なロジックを学校教育に応用して、その経営的戦術を学校施策に採用する、ということを否とする、という教育論を述べたものの一文ですが、私は学校教育の関係者でないので、その現場のことを詳しくは知りませんが、おおいに参考になる部分はあると思います。


この『学校運営』という部分を『まちづくり運営』という言葉に置き換えても、差し支えなくその説明が通るのではないかと私は思います。


あらかじめアウトプットが予測できるまちづくりって一体なんでしょうね。
単に一過性のイベントに過ぎないと思います。

もちろん、お金のからむことなので、経営的な観念をもたずにいたずらに使うわけにはいきません。

そういう意味では、市民活動グループのほうが身が軽く、自由な気がします。

まちづくりは、シムシティのような視座でおこなう数のゲームではなく、生の人間との向かい合い、人間を育てて行くことにほかならず、あらゆる予測不能の化学反応によって、刺激が生まれるものだと思う。
(良い方向に向かうか悪い方向に向かうかは事後的にしかわからない)

その最初の刺激を与えるのはそこに住む生の人間そのものであり、その連鎖反応で形成されていくものが町というものだと思う。


昨日、夕方の休憩中にテレビを見ていた時のこと。
過疎の町でまちおこしに挑んだ一人の男性がクローズアップされていました。

その男性の主張はシンプル。

・行政に頼らないまちづくり
・自主財源の確保
・全員参加のまちづくり

の3つ。


これがなかなか難しいとは思いますが、一人一人がこの仕組みの詳細を理解できるようになれば、大きなうねりとなって動き出すのは時間の問題です。

しかしやはりこの3つの考えを浸透させることが、一番の苦労所なんでしょう。




○思想の愉しみ


村上春樹の[走ることについて語るときに僕が語ること]を読むと、なんだか勇気づけられる、というか、シンプルな気持ちになれる。


村上春樹は、長編の小説よりもコラムのほうが好きだったりする。
思想する愉しみというか、好奇心の解放というか、そういう気持ちよさや心地よさを感じる。
(小説は自分にとってはヘビーすぎる部分がある)

それはそれとして、思想する愉しさを村上は与えてくれる一方で、『その思想は思想として』→『自分は自分として成すべきことを成す』というように心が整理されていく感じが、また楽しい。


自分は自分の仕事をキチっとこなしたい。
職人として与えられた仕事をまっとうにこなす人間でありたい。

でも実は「職人として与えられた仕事をまっとうにこなす」ためには「職人として与えられた仕事をまっとうにこなす」こと、ただそのことだけによっては、達成“できない”と思う。

「職人として与えられた仕事をまっとうにこなす」ためには、実はそれとは関係ないことをこなすことによって可能なのだと思う。

それは人によって違うのだろうけど、私にとっては「思想する」ことに他ならない。


「何かを達成する」のに必要なことは、我慢強さや根気強さではなく、、、それも必要だと思うけど、、、あちこちに関心が移ってしまうミーハーなマインドである、、、って誰か言ってくれないか。

私の場合そういう方法論でやっていきたいと思う。



○アンテナの感度


先日、京都・大阪に行った時、京都の恵文社に行って、たまたま目に留まった[山本七平]、『空気の研究』を買って、移動中読んでいました。

先日、[内田樹]の新書『日本辺境論』を読んでいたら、偶然に[山本七平]が引用されていました。

「日本辺境論」は内田氏曰く、「目新しい日本人論」ではなく、かつて色々な人が語ってきた日本人論に、少しだけエッセンスを加えたものである、と書いている。

かつて日本人論を書いた人として[山本七平]、[土居健郎]、[梅棹忠雄]、[ルース・ベネティクト]、[川島武宣]などをあげています。

で、結果をいきなり書いています。




私たちが日本文化とは何か、日本人とはどういう集団なのかについての洞察を組織的に失念するのは、日本文化論に「決定版」を与えず、同一の主題に繰り返し回帰することこそが日本人の宿命だからです。



と。


確かに、考えてみれば、日本人論を繰り返し読んでいる自分がいます。

[梅棹忠雄]の『文明の生態史観』は大学のゼミで、[ルース・ベネディクト]の『菊と刀』は高校生の時(!)に、[土居健郎]の『甘えの構造』は大学を卒業して帰って来て、図書館で借りてきて、[山本七平]の『空気の研究』はつい最近。


考えてみれば、ずっとその手の本を読んでますし、それらのバラバラのテクストはいつしか[内田樹]という人のもとへと集約していっています。

その他、日本人論以外の所では、[養老孟司]、[村上春樹]、[中沢新一]、[田口ランディ]などから得た知識もいつしか[内田樹]という人の渦の中に引き込まれているような気がします。




京都の大学を卒業して、地元の尾鷲に帰ることに、一つだけ心配事がありました。

それは「アンテナに引っかかる情報が少なくなる」ということです。

京都にいれば、好きな本屋さんもありますし、好きなCDショップもありますし(タワレコやHMVよりヴァージンレコードが好きでした。もう無いけど)、大学の図書館も利用できるし。

自分の好きなことに関する情報やトピックがリアルタイムでキャッチできる環境から離れることが嫌だったのです。


しかし、どうだろう。


京都で会社員をやっているのと、尾鷲でカフェの茶坊主をやっているのとでは、けっこうイイ線いってるかもしれません。

何がイイ線いってるか、って情報のキャッチが、です。


これだけ、偶然に好きだったものが、メルティングポットの中で一つになっていくように集約できているのは、仕事をしつつも、「そういう機会に恵まれたから」なんじゃないかと思います。

「そういう機会」はもしかしたら、京都で会社員をやるより、尾鷲でカフェの茶坊主をやってたほうが恵まれているのかもしれません。


カフェで働いている経験は、アンテナの感度を上げる作業に繋がっています。

情報が少ないからこそ、リアルタイムでないからこそ、タイムラグがあるからこそ、逃すまいと「自分なりのアンテナ」の感度が磨き上げられているのかもしれません。


京都だと多チャンネル、尾鷲だと高感度アンテナ、って感じか。

どこに住んでも同じだ。

自分が自分でいられる、環境に感謝。


さて、こんな長い長い日記、実はスルーしてもらって全然結構です。
今日の写真をば。

写真は[ペンネナポリタン]に目玉焼きをのせたものです。

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これはハマノ家のまかない料理です。
ランチで余ったペンネを使って、自分達のお昼ご飯になりました。
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by scale-158 | 2010-02-08 23:25 | pasta | Comments(2)
ヤーヤ祭りの男たち
今、尾鷲では[ヤーヤ祭り]が行われています。

中でも「練り」は一番の見所。
2日、3日、4日、と、尾鷲の[矢の浜][今町][北町]で行われます。

今日は[北町]に行って、「練り」を撮影してきました。

「練り」は、市内の男衆が各町単位で集結し、そしてそれが祷屋町に集結し、ぶつかり合いをする荒々しい祭りです。


かけ声は『チョーサじゃ!』。

各町が『チョーサじゃ!』と牽制し合って、ぶつかり合います。

↓[練り]をする町同士がにらみ合う状態。
町頭の合図で一気にぶつかり合いが始まりますが、合図を待てずに今か今かと『チョーサじゃあ!』と叫ぶ血気盛んな男衆を必死で押さえている人もいます。
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↓合図とともに突進。
『オラオラあ〜』
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『うぉい!うぉい!』とリズムよくおしくらまんじゅう状態です。
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祷屋になっている町の路地には[矢来](やらい)が立てられます。
見物人はやらいから『チョーサじゃ』と盛り上げます。

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このお祭りは、一枚の写真ではその迫力や荒々しさ、勇猛さを伝えることができませんので、複数の写真でお伝えしました。

明日は[練り]の最終日です。
また行って撮ってきたいと思います。
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by scale-158 | 2010-02-03 22:05 | owase | Comments(0)
あめふりヒヤデス
2月1日。

今日の尾鷲地方はあいにくの雨です。

こういう天気の日はカフェは少し客足が遠のきます。

「水商売」という言葉がありますが、じゃあお客さんが来なければただボーッとしてればいいのかというと、そうではありません。

最近はちょっとクッキーの生産が間に合っていないので、こういう時間を利用してクッキーや焼き菓子を作ります。

そういう点において、焼き菓子、というのは日持ちがするので便利です。
時間がある時に作り置きしておくことができるので。


最近は雑貨も始めたので、そっちの仕事も空き時間を利用してやります。


それでも時間のある時は本や雑誌を読んだり、お菓子の本や料理の本を読んだりします。

最近ではどんなカフェが流行っているのか、どんな料理が人気なのか、新しいスイーツの作り方や浸透具合をチェックしたりします。

あまりトレンドを追う必要もないのですが、一応はおさえておくべき情報はおさえてあります。



と、いきなりですが、ここで初めて作ってみたスイーツの紹介です。

写真は[イチゴと抹茶クリームのダックワーズ]です。

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[ダックワーズ]とは、メレンゲにした卵白にローストしたアーモンドパウダーと砂糖をサックリと混ぜ合わせ、型に流して焼いた生地のことです。

その生地を2枚作って、その間に抹茶のクリームと小豆とイチゴをサンドします。

これでできあがり。
ボリュームのあるスイーツに仕上がりました。

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実はこういうスイーツも、スイーツの本を見ていたり、雑誌を見ていたり、はたまた街を歩いていて、たまたま目に入ったものからアイデアが浮かびます。

今までやったことのあることと、あとはちょっとしたアイデアのミックスで、新しいメニューが増えていきます。

街をフラフラしたり、雑誌を読むことも大事な仕事の一つなのである。
(などど言い訳してみる)

※タイトルはUAの曲名から
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by scale-158 | 2010-02-01 15:56 | sweets | Comments(0)